見沼代用水の主要分水路の一つ平柳用水から更に分かれて三ツ和・八幡木・弥平周辺の水田を潤した新田井堀に架けられていた橋石です。正徳2年(1712)の年号が刻まれています。傍に郷蔵があったため、蔵前橋と呼ばれました。橋を渡る道は、日光御成道と千住宿を結ぶ道で、西新井大師への参詣にも利用されました。